『人工細菌誕生』の論文を解説してみる:その1(はじめに&研究の経緯)

 5月20日アメリカの科学論文誌Scienceに「人工細菌誕生」という論文がオンライン掲載された.
Creation of a Bacterial Cell Controlled by a Chemically Synthesized Genome
Gibson. D. G. et. al. Science. May. 20, 2010 (online)

 この研究成果のインパクトは相当なもので,日本でもTVや新聞で取り上げられた(読売新聞の記事).しかし,日本語媒体の解説記事では「人工生命の誕生に近づく成果」「テロに悪用される危険や、自然界にない生命体が実験室から逃げ出す可能性」(読売新聞の記事より)など,研究が及ぼす影響についての話題だけが先行してしまっていて,そもそもどんな研究成果なのか,つまりどういう経緯で研究が行われ,何が進歩したのかを詳しく解説しているものは見当たらなかった.

 そこで,元論文をなるべく詳しく解説することで,より冷静に,しかし驚きを持って「人工細菌誕生」という研究成果の意義とインパクトを知ってもらいたいと考え,私はTwitter上での論文解説を試みた.
Togetterまとめ『人工細菌誕生』の論文を解説してみる


 今回,Twitter上での解説を土台にして,加筆・訂正を加えてブログ記事としてもう一度まとめ直すことにした.

 この論文が示した研究成果は,例えて言うならば「既にあるOSと同じものを,中身を理解しないまま真似して作り,別のOSで動いていたパソコンにインストールして入れ替えた」というようなものだ.ブラックボックスはそのまま残されているし,新しい生命を創り出したわけではない.

 それでもなお,この論文は間違いなく教科書に掲載され,科学史に残る論文だということを私は確信している.この論文の何がすごいのか,どれだけ新しい知見をもたらしたのか,を提示することが本解説の目的である.

 私は「人工細菌誕生」の研究が含まれる,合成生物学と呼ばれる分野の専門家ではない.そのため,以下の論文の解説や解釈には誤りが含まれているかもしれないことを先に断っておく.内容の間違いに気づいた方がいれば,ぜひとも指摘をお願いしたい.

  • @popeetheclown
    • この記事の執筆者.生物学(特に構造生物学・生化学)を学ぶ大学院生.合成生物学の専門家ではない.

最低限の基礎知識

  • DNA
    • 遺伝情報が記録されている媒体(化学物質).A,T,G,C,4種類の「塩基」が対を作り,二重らせんの形で存在している.wikipedia:デオキシリボ核酸
  • ゲノム
    • ある生物種が持つ遺伝情報の総体.PCに例えると「OS+アプリ全部」みたいなもの.wikipedia:ゲノム
  • 遺伝子
    • 遺伝情報の中でも,タンパク質など細胞内で働く部品の設計図となっている部分のこと.wikipedia:遺伝子
  • 染色体
    • 細胞内に存在するDNAとそれを取り巻くタンパク質のこと.この論文中では,ほぼゲノムと同じ意味で使われている.wikipedia:染色体
  • bp
    • DNAの長さを表す単位.base pair(塩基対)の略.例えばCATATGは6 bp.1 kbp = 1000 bp,1 Mbp = 1000000 bp.
  • クレイグ・ヴェンター(Craig Venter)

Creation of a Bacterial Cell Controlled by a Chemically Synthesized Genome

化学合成したゲノムによって制御される細菌細胞の創出

We report the design, synthesis and assembly of the 1.08-Mbp Mycoplasma mycoides JCVI-syn1.0 genome starting from digitized genome sequence information and its transplantation into a Mycoplasma capricolum recipient cell to create new Mycoplasma mycoides cells that are controlled only by the synthetic chromosome. The only DNA in the cells is the designed synthetic DNA sequence, including “watermark” sequences and other designed gene deletions and polymorphisms, and mutations acquired during the building process. The new cells have expected phenotypic properties and are capable of continuous self-replication.


我々は,デジタル化されたゲノム配列情報を基にした108万塩基対からなるMycoplasma mycoides JCVI-syn1.0ゲノムのデザイン,合成,組立てと,合成された染色体だけによって制御される新しいMycoplasma mycoides細胞を創造するためのMycoplasma capricolumレシピエント細胞へのゲノム移植について報告する.細胞内のDNAは,人工的にデザインされて合成したDNA配列のみであり,そこには合成DNAを見分けるための「透かし」配列とデザインされた遺伝子欠失,遺伝子多型,そしてゲノム構築過程で生じた変異が含まれている.創出した新しい細胞は予想される形質を持つとともに,連続的な自己複製能を有している.

 この要旨だけを読んでも非専門家の人達には分からないと思うが,研究成果のポイントは次の4点だ.

  1. ある細菌のゲノムを構成するDNAを化学合成した
  2. 化学合成したDNAを繋ぎあわせて,細菌が元々持っていたのと同じ状態にした
  3. 繋ぎあわせたDNAを別の細菌の中に移植した
  4. 合成したDNAだけを用いて細菌が動いていること・分裂増殖することを確かめた

 注意すべきは「人工細菌≠人工生命」という点.論文の最後の方で出てくるが,著者達は人工細菌のことを「人工的に合成したゲノムDNAだけを遺伝情報として用いる細菌のこと」と定義している

 4つのポイントの中で,1と2(ある細菌のゲノムDNAを人工的に作り出した)については2008年,3(ある細菌のゲノムDNAを別の細菌に移植した)については2009年に,同じ研究者チームが技術を開発し,Scienceに報告していた.今回の研究成果は,過去の研究を組み合わせたものであり,ヴェンターらが目指してきた「人工細菌プロジェクト」の集大成と言える結果だ.
Complete Chemical Synthesis, Assembly, and Cloning of a Mycoplasma genitalium Genome. Science. 2008.
Creating Bacterial Strains from Genomes That Have Been Cloned and Engineered in Yeast Science. 2009.

この論文が挑戦した「生物学の問い」

 「人工細菌」の研究は突然現れたものではない.論文の冒頭では,これまでの研究の歴史が語られている.まず,1977年に化学者サンガー*2らが,ファージ(細菌に感染するウイルス)の1種φX174の全ゲノム配列を決定した.これがDNAゲノム配列決定としては世界初の成果だ.18年後の1995年,今度はヴェンターらが細菌の1種Haemophilus influenzae*3の全ゲノム配列を決定した.φX174のゲノムは5,386塩基対だが,H. influenzaeのゲノムは約183万塩基対.18年で300倍以上の長さのDNA配列が決定出来るようになったことを意味している.そして,8年後の2003年にはヒトの全ゲノム配列が決定され,完成版が公開された.ヒトのゲノムは30億塩基対,実にφX174の56万倍の長さを持っている.

 その後もDNA配列の解読技術はさらに進歩し,今ではわずか数日で100億塩基対以上の配列を読む「次世代DNAシーケンサー(配列解読機)」が日常的に稼働しており,さらに上回る性能を持つ「第3世代DNAシーケンサー」も実現が近づいている*4.このように,わずか23年の間に生物学者は莫大な量のゲノムデータを手にできるようになった.

 しかし,大量のゲノムデータを手にしても,ゲノムに刻まれた情報がどのように処理されているのかは未解明な点が多い.そして,これを解明する実験的な手段としては,個々の遺伝子について,あるいは個々の遺伝子ネットワークについて,地道に調べるというボトムアップ的アプローチが主流であった.

 一方,ヴェンターらはトップダウン的アプローチから問題を提起した.それは「生命を制御するには,ゲノム情報だけで十分か?」という問いだ.

No single cellular system has all of its genes understood in terms of their biological roles. Even in simple bacterial cells, do the chromosomes contain the entire genetic repertoire? If so, can a complete genetic system be reproduced by chemical synthesis starting with only the digitized DNA sequence contained in a computer?


全ての遺伝子について,その生物学的な役割が解明されているような単細胞生物はいない.たとえ単純な細菌の細胞であっても,染色体は全ての遺伝的レパートリー(註:遺伝子によって制御されている細胞の働きの全て)を含んでいるのだろうか? もしそうであるならば,コンピュータ上でデジタルデータ化されたDNA配列のみを基に,化学的に合成したDNAを用いて,完全な遺伝子システムを再現することはできるのだろうか?

 彼らは個々の遺伝子に注目するのではなく,ある生物の持つ遺伝情報の総体=ゲノムを丸ごととして捉えた.その上で,「生命を制御するには,ゲノム情報だけで十分か?」という問いを,「人工的に作り出したゲノムを移植した『容れもの』が生命として振舞うか」という実験的に検証可能な問いに置き換えて,今回の一連の研究を行った.

(その2に続く)

関連書籍

*1:90年代後半に自分でベンチャー企業を作り,ヒトゲノム解析に着手.その結果,国際共同チームとの競争で解析が早まったと言う経緯があった.

*2:ノーベル化学賞を2度受賞している(1958,1980).前者はタンパク質のアミノ酸配列決定法の開発,後者はDNA配列決定法の開発が受賞理由.

*3:インフルエンザ菌.インフルエンザウイルスとは別.

*4:シーケンサーだけでなく,解読したDNA自体を繋げたり解析したりする技術も大幅に進歩した.